紅に滲む





「時々、俺が誰なのか分からなくなるよ」
 突拍子も無く沈黙が掻き消える。
「道具だった俺はどこか違う場所へ行っちゃって、ならここに残っている"影"だった俺は何なんだろう、って。……決めたはずなんだけどなぁ」
 苦笑して傷を負った腕の指先で頬を掻く、彼は紅く燃え立つ灯に何を映しているのだろう。
 碧空は此処に在るのに、心は遠くに在るような気がした。


「だから、こうやって」
 腕の傷痕に触れる、その手つきはひどく穏やかで。
「痛みを滲ませることでしか、俺は俺自身を理解してやれない」
 そんな風にしか、何かを受け入れることができなくなってしまっていたから。
 自嘲するように彼はそう語る。
 ―――どうして、そんな道しか選べないのだろう。
「……哀しい人」
 手が伸びて、黒とも灰とも似つかない色の髪を指先で撫でる。
 どこか寂しげな笑みを浮かべながら、彼はじっとこちらを見ていた。




 ―――存在、というものは。
 たった一人では証明することもできないし、周りにそれが多すぎれば単なる集として捨て置かれてしまう。
 同じように否定することもまた難しいもので、故に私たちは自分の存在を時折疑ってしまう。
 本当に自分は此処に在るのだろうか。本当に誰かも此処に在るのだろうか。
 迷うことを続けてしまえば、足は堂々巡りを繰り返すか、暗闇の方向へ進んでしまうわけで。
 結局は、信じるしか方法は見つからない。存在を証明する方法は。




 どこまでもおかしなところで不器用な彼は、不器用な行動でしか何かを返すことができなくなっていた。
 僅かな温もりに縋ってでもいるように碧空の眼が閉じられていく。
 そっと、ゆっくりと、映る炎を吹き消すように。
 空へ太陽は沈んでいく。
「……眠ってしまえばいいわ。もう、太陽は沈んでしまったのだから」
 何時までも目を開いているわけにはいかない。生きていくためには休息も必要だから。
 生きていくと、そう決めたのなら。
「手厳しい、ねぇ……」
 甲に触れた指先はとても暖かくて。
 そのまま包み込まれるように握られて、私の中の何処かもまた温もりを抱く。
「優しさだけじゃ、人は生きていけないもの」
 暖かな炎だけでは何も生み出せないのと同じように。
 一息間をおいて、それもそうだ、と苦笑交じりに小さくつぶやいて。太陽は完全に沈む。
 瞬く間に夜と、緩やかな沈黙がそこに訪れる。聴こえるのは、微かな呼吸の音だけ。
 本当に、穏やかな。


 緩く握られていた手をそのままに、太陽を再び呼び覚まさぬよう静かに下ろす。
 ぱちぱちと灯が弾け散る音。寄り添うように身を寄せれば、そこからじんわりと暖かさが伝い拡がった。
(あなたは、其処に在るのでしょう)
 心で呟き、今は休息をとるために彼の肩へ頭を預ける。
(私は、此処に在るのでしょう)
 存在を確かに確かめるように目を閉じる。




 痛みの残らない護り方など私達は知らない。
 器用な護り方なんて知らないから、私達はその身を挺して守ることしかできないのだ。
 それがこの身に傷痕を残したとしても、護る対象の心に傷を負わせたとしても。
 私達はあり大抵の自己犠牲でしか大切なものを守る方法を知らない。
 だから、―――。


 せめて今、何よりも穏やかであれ。
 己を犠牲にした傷痕の哀しい痛みを、今だけは忘れ去れるように。




 自己犠牲