そんな他愛の無い綺想曲

01.万華鏡を覗いて
02.廻る季節の合間に
03.失った彩りの欠片を
04.慕わしく、痛ましく、美しく
05.綺羅星だけが見ていた

雰囲気的な5つの詞(ことば):綺
配布元:loca

素材:web*citron















01.万華鏡を覗いて

ある日の彼は、宿屋の一室の古びた椅子に背もたれを抱えるようにして座っていた。


後ろ手でそっと木製の戸を閉める。背中を向けているとはいえ、ここまで反応がないというのも、珍しい。
(寝ているわけじゃ、ないとは思うけれど)
向かう側の窓の外から微かに聞こえる風の音以外のあまりの静かさに自然と、歩み寄る足取りは静寂を帯びる。
しかしいつもとは打って変わった状況に身体は慣れてくれなかったのか。
かつり。
床に貼られた板の小さな隙間にはまったつま先が音を立ててしまう。
流石にそこで静寂の殻は破られたようで、紫紺の羽織がもぞと動いて。
「あれ、ジュディスちゃん。いつ入ってきてたの?」
「つい、さっき。あまりに静かだったから、驚いてしまったわ」
「およ、ごめーんね。ちょっとこれ、見てたもんだからさ」
座り直した彼がおもむろに差し出したものに目を向ける。探せばどこででも見つかりそうな、一本の古びた筒。こちら側に覗き穴のようなものがひとつぽかりと空いている。
「万華鏡ね。ずいぶん古いものみたい」
「やっぱりわかる人にはわかるのよねぇ。さっき子供たちに外側だけ見せたら、ポンコツ扱いされて見向きもされなかったわ」
筒を握り直して片目をつぶり覗き込む彼の表情は、見知らぬものへの好奇心に満ちてまるで子供のようだった。 碧い瞳にはどんな光の世界が映っているのだろう。惹かれるように私にも好奇心が芽生えてくる。
心の動きに抗わず、こちらに向いた筒の先に触れる。抵抗されることも無く筒は、角ばった手の中を離れて手袋をはめた手に収まる。
「覗いてみる?」
覗き穴のある筒先の向こうに、へらりといつもの笑みが見えた。返すように一度微笑んで、改めて万華鏡に意識を向ける。
触れるとわかる、色褪せた布が張られた丸い側面。過去は美しい彩りが見られたのだろうと指先で表面をそっとなぞる。
「どんな模様だったのかしら」
「さあね。今になっちゃ、誰もわからんよ」
言葉のベールに包まれた含みに気づかない振りをして、静かに万華鏡を覗き込む。
―――光に溢れた世界。そんな言葉がふさわしかった。
色鮮やかに、廻り回る空間。小さくともそこは現実から切り離された世界だった。
「何が視える?」
魅入られたように筒を回す私の姿に何か思うところがあったのか、問いかける声。
視えるもの、この世界は、現実ではあまりにも異質だ。
光に包まれた世界。光だけが其処にある。
「……光が」
存在しなければならないものは、そこに無い。
もしかして彼は、光の世界にもう一人の『彼』を映して見ていたのだろうか。影の無い世界に、影が、生まれる。
「……あなたが、見えるわ」
零した言葉を取り消すように繋いだ言葉は、どうやら彼を苦笑させただけに留まったようだった。


万華鏡を覗いて、あなたの心が視えればいいのにと、そんなことを思ってしまう。
どうやら私も、影の無い世界では生きられないらしい。


それこそ光と影が、共に在るように。


















02.廻る季節の合間に

ある日の彼は、それは穏やかな寝息をたてて眠っていた。


寝起きの眼を緩くこすって、朧気な視界は少しずつ輪郭を取り戻していく。どうやら夜は明けてまだ間もないらしい。部屋の中に差す陽光は弱々しく微かで。
それでも光があることに安堵するようにそっと一つ呼吸する。息吹は見えない細い糸となって、ほどけて清い空気に溶けていくようだ。
空ろな意識を取り戻し始めながら、目の前の未だ覚めない寝顔を観察することにする。
端正だがそれでいて呆けた寝顔だ。後者はともかく、前者を口にすれば『彼ら』はどんな顔をするのだろう。自分の考えに呆れながら、幸福な時間に目を細める。
顔にかかる寝息がこそばゆい。目蓋にかかる前髪を指先でそっとよけてやれば、くすぐったそうに僅か眉を寄せて身をよじる。子供のような仕草にまた笑みが深まる。
―――いつの間に手に入れたのだろう。心までも安らげる場所を。

唐突に、伸ばした腕を掴まれ、引かれる。緩慢な動作で腕を回され、抱き締められる。
うずめた胸の上、寝息はまだ続いている。きっとまだ、眠りの中に居るのだ。
考えることは、今はやめよう。今はこの温もりに、暖かさに浸っていたい。
一瞬、ほんの少しだけ泣きたくなったのは、どうしてだろう?

これから先、たくさんの時間を過ごしていくのだと思う。
命芽吹く春。太陽が茂る夏。色付き褪せる秋。終わりと始まりの冬。
廻る季節の合間に、どれだけこの人の表情を見られるだろう。それが楽しみで仕方ない。
くすくすと笑みを零せば、小さな目覚めの音が聴こえた。


もしかしたら、泣いていたのかもしれない。


















03.失った彩りの欠片を

ある日の彼女は、雑貨屋で色取り取りの画材に目を向けていた。


「ジュディスちゃん、欲しいものでもあった?」
「いいえ。でもこんなにたくさんの色、見るのは初めてで」
色なら遥かな旅の中で多く見てきただろう。しかし何色かと訊かれて答えられるものは少ない。
目を奪われたように色彩を見つめる赤の瞳。考えると彼女の瞳も、何色かと問われると少し考え込んでしまう。
画材の中に見合った色はないかと、おもむろに自分も目を向ける。
絵の具の色にぼんやりと意識をとられていると、不思議と過去の記憶がふつふつと蘇る。
鮮やかな深紅。猛き意志。あの背を見上げ往くのだと誓った日。
澄み切った蒼茫。広がる空。仰ぎ見つめ息を深く吸った日。
舞い散る新緑。風を共に凪ぐ葉。汗を散らし腕を磨いた日々。
あんなにも鮮やかだった色は、しかし記憶の中で少しずつ白黒に単調に色褪せていってしまう。
いつかはこの『現在』も単調な色に褪せてしまうのだろうかと、仮定の未来に思考を飛ばせてしまったことに苦笑する。
思えば自分も随分変わったものだ。あの頃は周りの色彩に目を向けることもほとんどなかったというのに。
まして『これは何色か』なんて、心を向けて考えるようになるとは思いもしなかったに違いない。
「レイヴン。……レイヴン?」
「んあ?」
呼ばれた名前に思わず言葉にならない声で返す。
「どうかしたの? 随分、真剣な眼で見ていたみたいだけれど。あなたも何か欲しい色、見つけたのかしら?」
自分の考えていることなど知らないだろうに、仮定の『赤』の瞳は笑みを形作る。
「いんや、ちょっと思い出してただけよ。……ジュディスちゃんは何かいい色見つけた?」
「ええ。皆ぴったり」
「皆?」
満足したように笑う、彼女の表情も随分地についたものだと思う。
一つずつ、手袋をはめた手で順に画材を持ち上げていく。

「これが、ユーリ」
並んだ画材の端より少し手前、黒より少し褪せた、灰色がかった黒。
名前は『墨色/すみいろ』。

「これが、エステル」
桃色の中でも淡い色。僅かに橙色の名残があるだろうか?
名前は『撫子色/なでしこいろ』。

「これが、ラピード」
灰色がかった蒼。青と紫、どちらかというと紫が勝っているよう思える。
名前は『紺青/こんじょう』。

「これが、カロル」
始まりを示すような、これから育ちゆく、新芽のような黄緑。
名前は『若草色/わかくさいろ』。

「これが、リタ」
鮮やか過ぎず、それでいてはっきりと存在を主張する赤。
名前は『深緋/こきひ』。

「これが、レイヴン」
「……これが?」
うっすらと、ぼんやりとした、薄い灰色の混ざったような―――緑とも青とも言い難い色。
名前は『青竹色/あおたけいろ』。
「あら、違うかしら」
「てっきり紫系の選ぶと思ってたよ、おっさん」
適当な紫の絵の具を手に取って眺める。自分で言うのもおかしな話ではあるけれど。
「どうしてかしらね。この中の紫のどれも、あなたの色じゃない気がして」
すっと指先が向けられる。右手の温もりが触れたのは、左の瞳のすぐ下。
「この色が一番、あなたの瞳の色に似ていたから」
瞳の色を見出そうとして、反対に見出されるとはどうしたものか。
どうにもこうにもおかしな思いが込み上げてきて、ごまかすように苦笑を零す。
さっきまで考えていたことが嘘のように思えてくる。
「それにしても、こんなにうっすいかね、俺の眼の色」
「少なくとも、はっきりし過ぎている色よりは綺麗だと思うわ。―――私は好きよ?」
心の何処かがむず痒いような、それでいて不快ではない優しい何かが生まれて、やはりどうしたらいいものか分からない。
どうにかして笑みを深めれば、応えるように柔らかな微笑が返された。
「んじゃ、ジュディスちゃんは……これかね」
紫を戻して一つをつまみ上げて見せる。
空よりも海よりもなお、深い青。
名前を『瑠璃色/るりいろ』。
「そんなに……深い色かしら」
「これでいいのよ」
少なくとも俺の眼には、鮮やかに映る。


失った彩りの欠片を、今更取り戻そうとは、拾いに戻ろうとは思わない。零れ落ちたものはもうこの手には戻らない。
過去に目を向けてばかりでは、今此処にある色彩さえ見失ってしまうと、知ってしまったから。

鮮やかな世界で、ここで。もう一度、


(参考:色の名前辞典WEB色見本


















04.慕わしく、痛ましく、美しく

ある日の彼女は、心此処に在らずと言った様子で大海原を眺めていた。


「命はここから生まれ、いつかここへ還る」
独り言のような囁きに、自然と目が細まる。夢想を見ているのだろうか。いつか来る、青の未来を。
海鳥の鳴き声が高台の遥か上に響く。夕暮れが、水平線に沈んでいく。
「ときどき、泣きたくなるような心地になるの」
夕日に向かい立ち目に映る背中が、言葉以上に雄弁に哀情を物語る。
海風が頬を撫でる。時の流れる情景が、否応なく懐古の記憶を呼び覚ます。
美しいほどに、息苦しいほどに。淡白で、白黒で、鮮やかな。光と闇が紡ぐ日々。
橙を映す小波の音色。消えゆく夕日の落とす影。意図せずそれは、心に追憶を引き起こす。
「今まで、どのくらい泣いた?」
気づかぬままにかけた問いに、彼女は静かにかぶりを振る。
「時間なんて、数えるくらいしか私にはなかった。とてつもなく大きなひずみと、このまま揺らいでしまうような地の感覚に、私は足を止められなかった」
それはきっと言葉にできないほどの、辛く哀しく優しい記憶。
「時間とか、そういうのは無くなったものとして見てた。そう思うと全部が他人事のように思えて、そこでようやく歩き始めることができたと思ったけど……実際気づいてみたら俺は、踏み出してすらいなかった」
優しさは幻想。そうでも思わなければ、仮初でも生きては居られなかった。
「過去と向き合えるようになるまで、私達は、ずっと同じ場所に居たのかしら」
堂々巡りを繰り返して。歩くことすら忘れて。
ただ、其処に。
「そうかもしれない。……ただ」
彼女が振り向きかけて、顔が見える寸前で動きを止める。
「もっと広い世界に行けるってことを……自分の足で歩いていけるってことを、知った。それだけで、充分じゃない?」
前よりは少し、生きている人間らしく、笑えるようになったと思う。自分は此処で生きている。自分の意志で、此処に居る。
「一緒に行こう。……いつか還る、その時まで」
間をおいて、振り向きかけた顔がゆっくりと、こちらを見る。
漸くと言った様子で、紅い夕陽と同じ色の瞳から、涙が一筋零れて落ちた。


累積する記憶は、慕わしく、痛ましく、美しく。
故に過去は昏く、同じように愛おしい。


彷徨い続けた想い。いつか還るその時までは、共に。


















05.綺羅星だけが見ていた

ある日の彼は、ひどく憔悴した様子で雨空の下を歩いていた。


「レイヴン……?」
雨雫が滴り落ちる窓から覗く見慣れた人影、呟いて腰かけた椅子から立ち上がる。
嫌に涼やかな予感が背中を伝って、錘をつけられたような速さの歩みで外へ続く扉に近寄り、そっと、押す。
いつもは心地よく聞こえる繋ぎ金具の音が、何故かひどく重いものに聞こえた。
森からの道を抜けて、こちらへ歩いてくるのは紛れもなく彼だ。
しかしその足取りは雨を吸ったためなのかどうかひどく重く、顔は俯いて雫を落とす前髪に隠れ、表情は見えない。
私は何故か中にタオルを取りに行くことも、立てかけてある傘を取って駆け寄ることも出来なかった。
やがて歩みは、ドアに寄りかかるようにして立つ私の前で止まる。降り続く雨は川のせせらぎのように、音だけを残して大地に滲み込んでいく。ぽたり、ぽたり、墨色の髪が模る筆先から滴り落ちる雫は何色にも色付かず、透明だ。
「……レイヴン」
名を呟いた、その言葉だけはどうにか疑問にはならなかった。


此処で暮らし始めて、幾つもの朝と夜をこの目で眺めてきた。共に歩んできた太陽と月は今は遠く、しかし時折いつかの日と同じ輝きを見せてここを訪れてくれる。
旅路に渡り歩く日々に別れを告げてから、寒さに対する見えない羽衣は徐々に取り払われつつあるようで。今ではもうあの戦装束を身に纏うことは少なくなっている。最近では、特に。


そっと、おもむろに手を伸ばして、表情を遮る前髪に触れる。隙間から見えた碧からは、常と違えて何の感情も受け取れはしない。虚ろが映る、碧。
―――あの時と、よく、似ている。
「思い出したの……?」
答えは返らない。向き合う瞳だけが僅かに閉じられ、逸らされる。
時折、あまりにも優しい時が過ぎていく中で、不意に風が目の前を横切るがごとく記憶が煌々と蘇ることがある。視界を白と黒の二色で塗り潰されたような、単調で絶望的な無二の記憶。
鮮やかに色づいた現実の中で、その過去は、どうしようもなく昔日の感情を呼び起こす。
「…………、……」
僅かに開いた口が何かを呟いて。こんなに近くに居るのに、何を言っているのか分からない。
……聴こえないわ。聴こえない。
背中に手を伸ばして、雨に打たれた胸に顔をうずめる。こうして心が、伝わればいいのにと思う。


何を失って、何を手に入れて。ここまで歩いてきたのだろう。
過去と決別して、自分は現在を生きている。なら、別れた過去は何処へ帰ればいい?
考えても、考えても、辿り着く場所は暗い深い光のささない場所で。



すがりつくように、回した腕に力がこもる。
「……いいの。ここに居ても」
背中が一瞬震える。
誓いが欲しいのなら。この場所に帰る、赦しを探しているのなら。あなたはもう持っている。
此処はあなたの帰る場所。たとえ何もかもが視えなくなったとしても。
光を無くして、それでも生きることを望んだあなたなら。帰ることができるから。


この手を離した過去が光のささない場所でも変わらず輝いているのなら。瞬いているのなら。
帰る場所を見つけてもいいのだろうか。この心が、帰る場所を。



「……帰る場所が、ずっと、欲しかった」
気づかなかっただけなのだ、彼は。
光が何時でも照らしていたことに。
暗闇の向こう、雲の隙間から星が煌々と光を落としている。どんなに暗い夜を越えても、どんなに眩し過ぎる朝を過ぎても。空に瞬く星々だけは、いつだって同じ姿、同じ場所で、遥か天涯からこの世界を見守ってくれていた。例え星を喰む災厄が空を覆ったとしても、星は、星だけは、変わらず輝きを放ちこの大地に光を与えてくれた。
降り注ぐ光が根を張る場所がこの世界ならば、実った祈りが還る場所は星の膝元なのだろう。たとえ導きの灯を見失ってしまっても、人は帰る場所を決して失わない。
どんなに暗い夜を越えても。どんなに眩し過ぎる朝を過ぎても。帰るべき場所は、ずっと。


光と影と。帰る場所が違っていたとしても。心はきっと同じ場所に。


何度でも言ってあげるわ。
何度でも、何度でも。
「……おかえりなさい」


―――辿り着けるはずだから。


雨雲は過ぎて、あの日見たそれときっと同じ明星(あけぼし)が顔を出している。
静かに大地、見護るように。
厳かに、鼓動が響く。私のものと、彼のものと、―――今は聴こえないに等しい、もう一つの。
私達はきっと、涙するだろう。


舞い降りる幸福の予感を、綺羅星だけが見ていた。


もうすぐ、夜明けがやってくる。


















光。朝。色彩。記憶。そして星。
世界に綺麗なものは手の平から零れそうなくらい溢れていて。
それらは全て、日々の片隅にひっそりと、佇んでいるのかもしれない。