世界が壊れる音を知っているだろうか。
 どこまでも深く、芯の奥まで貫くような。
 それでいて痛みは全くない。
 崩壊する前に痛みは許容量を越え、それ以上の痛みが分からないからだ。
 響かれた音色は全てにおける繋がりを断ち切っていく。
 残されるものは、永遠にも似た虚無。
 例えるならそれは、常闇の夢。






 遠くからの崩壊の音を耳に捉える。逸らした隙を突いて鋭い刃が振り下ろされる。
 眼を逸らしつつも難なく避ければ数度目かの苦々しい舌打ちが神殿内に高らかに響く。
 視線と感覚をこちらに呼び戻し、体制を整えようとするその前に詠唱の声。エアルが集中する。
 うねり牙を剥いて襲い掛かる炎の蛇を剣でどうにか退け、体を横へ反らす。先ほどまで経っていた場所に力強く槌が振り下ろされる。
 この槌の一撃が命中することがないのは明らかな迷いの証拠だ。感情も無くただ観察するように目を細める。
 斬撃と魔術がせめぎ合う中を、荒れ狂う風の魔術が切り裂いていく。
 疲労が重くのしかかる。傷口が疼く。
 それこそ戻れはしないのだ。あの温かい場所へはもう二度と。振り返っても道は既に閉ざされているのだから。自分が閉ざしたのだから。
 性質の悪い痛みは剣を振るううちに、鈍い衝撃を与え続けると共に薄れていく。
 気づけば対峙する者達は皆床に倒れ伏し、目の前にはたった一人が立ち塞がっていた。
 異種族の槍使い。智深きその眼にて世界を見据える娘。
「お前達の言う『レイヴン』とやらは、ここには居ない」
 その言葉が聴きたかったのだろう? 少女の眼が僅かに見開く。
 しかし次の瞬間には横に下がっていた槍を構え直す。
「―――-知っている筈よ、あなたは。その名が誰を示すものなのか」
 旋律は揺らがずともその眼が揺らいでいるのだから、どうしようもない。
 剣の切先を真っ直ぐ向ける。己には無いその心臓へ。
「知らんな」
 確実に紡いだはずの言葉であるのになぜか揺らいでいるように聞こえた。


 きっと、零れ落ちたそれを目にしたせいなのだろう。
 美しい紅玉から頬を流れ落ちた、それを。


 瞬時に剣を防御に回す。
 舞い降りるような槍撃が衝撃を伝えてくる。
「……私は、あなただけは信じていたかった」
 拭うこともせず紡がれる、その言葉はもう震えてはいない。
「それが意味するものは、敗北だ」
 安堵したように吐く息が鋭さを取り戻す。そんなものは幻想にすぎないと槍に拮抗する剣に力を込める。
 同じように槍にも力が込められる。
「負けないわ、私達は。私達が先へ進む」
 決意の言葉が流れた涙を振り払う。それでいい。
 揺るぎない覚悟で俺を殺してくれ。そうすれば、今度こそ終われる。
「お前達に、それができるか」
 あからさまな挑発は、けれど挑発の響きには到底聞こえなかった。
「できるできないの問題じゃないわ。やらなければ、ならない」
 瞬きが一つ。雫はもう流れなかった。流れた痕だけが決意を物語る。
「私達は、」
 剣が槍を、槍が剣を弾く。
「私は、」
 離れた瞳が再び向き合う。


「あなたを、越えていく」


 抱えた痛みが霧散した。腐った痕が息を吹き返す。
 その言葉が、聞きたかった。
 剣を構えなおす。柄を掴む。
 もう迷わない。迷えない。終末へ続く道の霧を振り払ったのは紛れもなく自分だった。
 "元"仲間達が立ち上がる。痛みを堪えて膝を上げる。彼等は今最も辛い痛みを抱えている者が誰なのかを知っていた。
 だから彼等は倒れない。今此処に居るものが己でなくとも、彼等は決して倒れない。
 それぞれの瞳は違う色を、同じ強い意志を映していた。


 ……―――――。
 戻れない場所へ進む足。
 意志と意志が激突するその瞬間、知らず唇は決別の音を紡いでいた。


 終らせてくれ。ここで。










 光が目に突き刺さる。不思議と痛みはない。理解と共に息を細く吐く。
 温もりの先を見やれば、夢とは打って変わって穏やかに眠る娘が一人居た。
 独りではなくてよかった。誰も居ない場所で目覚めたなら、もしかしたら還ることは叶わなかったかもしれない。
 そんな思考を打ち消す。もしもを考えるのは性に合わない。彼女にも笑われてしまうだろう。
 手を伸ばして解かれた青い髪を梳く。自分は今、此処に居る。
 確かめるように息を吐いて微笑むと、温かなものが頬を流れた。





 涙一筋



 そして鴉は生きる意味を知る。