あきらめてしまうと、癒しようのない不幸も和らげる。
ホラティウス(古代ローマの詩人)『抒情詩集』
何をしようがしまいが、えてして幸と不幸とは天秤に掛ければ釣り合う重さなのだという。すなわち同量。
質量保存の法則というものがある。失った部分は他のものにより埋められ、器に収まりきらないものは切り捨てられる。人生とはえてしてそういうものであると、何時かそう悟ったことを思い出す。だがしかし、現実は否応なく摂理を踏み荒らしていくから、理屈の崖に沿って歩くことには疲れてしまった。
―――強いられるならいっそ不条理の絶壁から飛び降りてしまえばいいのだと、存在意義を無くした体内の倫理がまた囁くのをぼんやりと聞いている。
「残酷なものよね」
体内から囁く声と、感情の薄い台詞が、静かに拮抗している。緩やかなそれでいて悠々自適に淀みなく流れていくその声に雑音や軽砂が混じっていたように思えたのは彼女自身が意図してのことだったのだと、気づいたのはもう少し後のことだった。涼やかな響きは慰める音にも、蔑む音にも聞こえない。
「ま、しょうがないんじゃないの」
真夜中の空に名物の夕紅が仰げる筈も無く、欄干を背に仰け反る。濃藍をなお深く潜った海に、星以外の何が見える訳も無く。
同じように、彼女が口にした言葉の真意すら、理解していない。
「全てに等しく、平等に。……世界とは、そういうものであるべきだわ」
微かに湧いた沈黙はぬるく、前者の言は本意を口にしたようには到底思えずに。
「それ、誰の言葉だい?」
「父が。よくそう言っていたわ。ふさわしい言葉だと思わない?」
何にと訊き返せば、今の私達にと通る声が返る。背を逸らせたまま思考してはみたものの、どうしようが離れた糸を結びつけることは出来なかった。
潔く降参の諸手を上げれば、地平を眺む眼差しがこちらをちらりと見て、至極楽しそうに細まった。
「不幸も、幸福も。平等であるべきと、父は言ったわ」
「無理っしょ、んなもん」
唐突に、即座に反対論を返した自分に、おそらくは一番驚いていた。
「その後にいつも、こう言うの」
伸びてきたしなやかな指先は瞼にかかる前髪を分けて、視界に現れた時と同様にそっと離れていく。傷口を抉るような、とは思考に浮かべてみるものの、滑稽なほどにかけ離れた行為に僅か目を絞る。
気づけば空に、星は見えなくなっている。夜空の道標すら見失ったこの目に、それでも見い出せる光はあるのだろうか。不意にそんなことを、想う。
「幸福の数は涙を流した数で、不幸の数は諦めた数であると、哲学者を気取ればそうなる」
そう言って自分に笑ってみせたのだと、懐古する横顔は美しく、どことなく哀しげだった。
明けゆく空には見向きもせずに、眼差しはなおも問いかける。
あの黎明の向こうでも、戦場の空は残酷な程に赤いだろう。夜明けの光すら届かない場所で、世界はなおも歌い続ける。摂理とは、そういうものであるべきだ。
戦火を背にする戦乙女は、叱責すら与えてはくれない。
「………。優し過ぎるよ、ジュディスちゃんは」
嘘ばかり言ってと首を傾け浮かべた柔らかな微笑みは、暁に絆されでもしたのか僅かばかり滲んで見えた。
それでも過去は消えないのだと、知らなければこのまま泣けただろうか。
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