いつか、この日が来ることを知っていた。
 だからこそ、来なければいいと願っていた。




 感覚が。感情が。水の底へ沈んでいく。
 今度は、仲間たちの声でも、戻れないだろう。
 意味も無くそんなことを黙考する。僅かに開いた隙間から零れた泡は、聞こえない真実として水面に辿り着く前に霧散する。
 仲間達に、真実の声は届かない。


 いつもの調子でやってくれ、と絞るように訴える青年。
 "いつも"の意義を、教えてほしい。自分は一度も、自分の意思で動いたことはない。
 色の無い諦観に、自然と一度瞼は閉じた。
 ―――本当のことを言ってしまえば、それらは、嘘だ。


 好きだったんだ、と少年は嘆く。
 もうそこに、"レイヴン"と呼ばれた存在はいない。
 存在するのは、道化を演じた操り人形だけ。
 真実は、深い闇に葬り去られて、もう二度と戻らない。


 絶対に許さない、許してたまるか、と少女は叫ぶ。
 許されるつもりなど、毛頭ない。
 許されるなんて、始めから思っていない。
 許されることなんて、決してない。


 ここで死ぬつもりなのかと、涼やかな女性の声。
 それらの刃にかけられて死ねたなら、どんなにか幸福だろう。
 しかし、それは叶わない。決して、永遠に。




 いつか、こんな日が来るんじゃないかと思っていた。
 だからこそ、来なければいいと願っていた。
 運命と世界はいつだって残酷で、時間と記憶は哀しいくらいに優し過ぎて。
 忘れてしまえばよかったのだろうかと、一人水底で光を見上げる。
 水面の向こうで舞うように交わされる剣戟の音を、ただじっと、聞いている。


 刻々と湧き上がる言葉。逃れ得ぬ慟哭から目を逸らし、瞼が震える。
 聞こえたのは叫ぶような制止の声と、そして過去に引きずり戻そうとする追憶の音。
 どうして自分独り生き残ってしまったのかと、自責の念に駆られて唸るように嘆いた夜もあった。
 それでも流れゆく時に逆らうことはできず、ただ促されるままに存在を偽り、心さえも空嘘で塗り固め、真実は闇に溶け込むばかりでいた。否、そう在らなければいけなかった。
 今もまた、真実の「心」は虚偽の海に呑まれ、掻き消されようとしている。抗いは容易く波に浚われて、隙間から入り込む悲愴と終演の始まりに言葉一つ紡げない。
 ―――言葉は死んだ。もう二度と、甦ることも無い。
 事実がとうに捨て去った涙さえも呼び起こす。しかしそれすらも深い水底に呑みこまれ、残骸すら残さず消えていく。
 飲み込んだ水は身体中を浸食し、徐々に海上の光は薄れていく。
 これが真実の終わりなのか。これが、"世界"と"時"に掻き消されるものの宿命なのか。
 悲しみに暮れる暇もなく、閃く剣戟の音は遠く薄れ過去となる。深青がすべてを覆い、真意は時の流れるままに仮面を被らされる。
 無音の他律に、息もできない。こんな結末を、望んだわけではなかった。


 ―――終わりたくない、と。
 希う心が、仮面の虚偽であったのか、水底の真実であったのか。
 自分でも解らないまま、思考に疲れ切って瞼を下ろす。
 身体が、想いが、海に沈んでいく。
 千尋に、呑まれていく。




 あの時に、死んでしまえばよかったのかと。
 そんなことは、思いたくなかった。






振り返りたくはなかった。眼を開きたくもなかった。
そうすればきっと、自分は望んでしまうから。

タイトルの「千尋(せんじん。ちひろとも読む)」ですが「深い水底」と「レイヴンの"途絶えた切望"の心境」からイメージして付けました。
久しぶりに書いたので、文章が少し読みにくいかもしれませんが……ユーリ達に出逢うまで、彼は世界の「深さ」から目を逸らして、生きていたのではないかと思います。自分をも顧みずに、ただ本当に、時の流れに流されるまま。
だからこそ自覚した瞬間に、自分の中に巣くった絶望の深さを実感したのではないか、と。

本当の、いわゆる「悲劇」に名前は付かないと、とりとめも無くそう考えています。
悲しい終わり方は望まない。だからこそ今も、願い続けている。

(千尋[せんじん/ちひろ] … 測り知れない深さ)
[ 09.06.30 ]


Back