ヴァルハーツと杯を酌み交わした夜、マギアスは彼と別れ、酔い醒ましにわざと遠回りの道を選んで歩いていた。
 宵の空には雲一つなく、月の光が冴えて見えたからというのも理由の一つではあった。
 手頃な木の枝を折って唇に挟み、おもむろに上下に揺らしながら、月下の道を歩く。
 偏屈、と言われがちな彼ではあるが、美しいものを美しいと思う精神くらいは持ち合わせている。口に出す全てが世辞やら処世術やらの類いであったとしても。
 自分の口にする言葉が人のそれより乏しいことを、マギアスは理解していた。



 歩き続けてどのくらい経ったのか。ぼんやりと歩いていたマギアスがふと周りを見渡すと、手の届く場所にはほとんど草木が生い茂っている。緩やかな歩みを止めないブーツの底は砂利を掻き、獣道に入ってしまっていたことを認識する。
 しかし、だからと言って、慌てるほどのことでもない。マギアスは口の枝を揺らす。
 自分は方向音痴ではなかった筈だが。遠くから吹いてくる潮風に冷めつつある頭で思いにふけり、歩いていると、不意に視界が開ける。
 獣道を抜けたようだ、と視線を上げると、予想もしなかった人影が視界の中心に映り込んだ。よく見知った、人影が。
 ―――仮にも弩を引く職業に就く彼は、常人と比べれば遥かに目が良い。間違える筈がなかった。
 だからこそ、マギアスは、初めて目にする光景に、言葉を失うしかなかった。






孤独照らす月






 ……緩やかに静止した剣の、切先が静かに下ろされる。
 自分には聞こえず、彼女には聴こえるのであろう音色が途絶える感覚は、酷く朧気で曖昧だ。
「―――隠れていないで、出てきたらどう」
 やはり、気づいていた。
 想像通りの言葉にマギアスは驚くことなく、大人しく獣道から姿を見せる。丁度、月がシルクの真上にくる位置だった。
 人の気配は感じていたのだろうが、それがマギアスだとは思いもしなかったのだろう、シルクは僅かに目を見開き、しかしすぐに表情を戻す。
「……貴方だったの」
「覗くつもりはなかったんだが、不可抗力でな」
 一つ瞬いて、興味ないとでも言うようにシルクの瞳が逸れる。
 いつから気づいていたのかと、訊ねるのは愚問以外の何物でもなかった。
 そしてマギアスは、彼女の姿を見つけてから過ぎた時間の長さを、憶えていない。



 他人からの必要以上の干渉を拒む代わりに、他人への必要以上の干渉をしない。
 そんな彼女の徹底的なまでの姿勢――もしかすれば、それが元来の性格なのかもしれないが――にマギアスが気づいたのは、シルクが自分達のギルドに加わって少しばかり経った後だった。
 世界樹の深奥を目指す為だけにギルドへの加入を求めた彼女を、ギルドマスターであるパイレーツの青年は拒まなかったという。あのお人好しな青年の突拍子の無い言動や行動は他人にはいささか予測し辛いものがあったが、それが間違った試しがないことも確かだった。ある種の才能でもあるのだろう、マギアスはそう解釈している。
 そんなギルドマスターには及ばずとも、お人好しばかりが集まったようなこのギルドで、彼女の放つ研ぎ澄まされた刃のような冷たさはよく目立つ。ゼノの判断が間違っていたのかいないのか、その判断はまだ出来ない。
 しかし自ら孤高を選ぶその姿は、何処か自分に似ている気がしていた。マギアス自身、自分の求めるものを未だに理解できなくとも。
 彼女と自分は、よく似ている。確信は無くとも、マギアスはそう感じていた。



 見据えるばかりで何も言わないマギアスをどう思ったか、シルクは無言でその場を去ろうとした。
 向けられた背中の向こう側に、宿の明かりが小さく見える。
 自分が歩いた道は偶然にも間違ってはいなかったらしい。頭の中に小さな感嘆がよぎった、が。
「シルク」
 思わず飛び出した言葉に、マギアスは表情に表すことなく惑う。名を呼んだこと自体、初めてではなかっただろうか。
 意図しなかった呼び止めにシルクは立ち止まって、静かに横顔だけを見せる。
「……何?」
 返った台詞に棘は無く、ただ単に意味を問うのみだった。
 しかし、続かなければならない言葉が出てこない。
 呼びとめて、何をする?
 ―――何を言う?
「……何でもない。呼び止めて、悪かったな」
 ―――歪んだ扉が軋む、音がする。
 歯車に一つ、ひびが入ったような音が聴こえた、気がした。
「……別に、いいわ」
 話は終わった。
 シルクはもう振り返ることもなく真っ直ぐに宿の明かりを目指し、マギアスは月を仰ぐ丘に独り取り残される。
 酔いはすっかり醒めていたが、後を追って宿に戻る気にもなれず、マギアスはその草原(くさはら)に腰を下ろし、寝転んだ。
 月光は変わることなく冴えて、しかし先ほど見たそれより頼りない。細波が、遠くに聴こえる。
 決して眠くはなかったが、言いようのない想いに囚われるようにして、目の前の世界を拒絶するかのように、マギアスは瞼を下ろした。



 自分の口にする言葉が人のそれより乏しいことを、マギアスは理解していた。
 だからこそ、今だけは、その足りない言葉が無性に欲しいと思った。
 そうすれば、頭の中に響くこの音も、痛みも、消えるような気がしたのだ。



 月明かりが宿る瞼の裏、孤独を抱いた横顔だけが、いつまでもマギアスの脳裏から離れなかった。






月光下の剣舞。
彼女はとても『綺麗』なんです。
[ 10.04.25 ]


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