「せっかく大紅蓮石の研究資料、持ってきたのに」
 至極当たり前のように顔パスで通された部屋に探し人はおらず、腰に手を当て丸めた書類で肩を叩く。応えるべき相手がいないのだから、勿論返事が返る筈もない。
 軍から彼に与えられた部屋は整頓されてはいるものの、人がいた気配は僅かにしか感じられない。
 暇がないからと頼まれた用事だったのだが、本人は思ったよりも責務に追われているようだ。
 ―――無理もないと囁く心。雪に閉ざされた国で再び燈った変革の灯は、既に音を立てて広がり始めている。
 案内の兵士が勧めてくれた椅子に腰掛ける気にはならず、ぶらぶらと室内を歩き回る。二度三度訪れたことはあるものの、穏やかな好奇心が擽られることに変わりはなかった。
 物は少なく相変わらずの殺風景だが、物に執着が無いわけではないことを知っている。旅の途中も物を求めることは少なかったが、物の良さを見抜く目は仲間の誰よりも優れていた。所々にひっそりと置かれた調度品がその確かさを教えてくれる。
 眺めながら浮かべた微笑みに気づかぬまま、時折喉の奥から顔を出す怠惰/怠け者に手を翳し必死に噛み殺す。
 そんなことを数度繰り返してふと、執務机上の書類に目が留まった。
 歩み寄って大紅蓮石の書類と入れ替え手に取り、一つまばたく。軍事国フェンデルにおける、現在の情勢をまとめた報告書のようだった。
 内容を覗くことはもちろんせず、むしろ表紙に書かれた文面に意識が引かれる。
 どれもこれも、自分のものとは全くと言っていいほど違う筆跡を眺めて、そこに安らぎを覚える自分がいることを密やかに不思議に思う。
 流れた筆の跡をぎこちなく指先でなぞり、知らず頬が緩む感覚を理解した。
(ほんと、おかしいなぁ)
 元来、人の字には書いた者の心が映し出されると言う。
 よく見ないと分からないほど僅かに右上がりで、跳ねの部分に珍しい癖があって、それでいて不器用に真っ直ぐな字。
 ああ、これが彼の心なのだ。
 自分だけで納得して、一人小さく頷いていた。



「すまないな、待たせた」
 予兆も無く背後からかけられた声に身体が一瞬跳ね上がる。反射的に振り返るのと同時に持っていた報告書を思わず背面に隠してしまうが、子供じみた行為は容易に彼の口端を一段軽く上げさせた。
「俺の報告書か」
 微笑み混じりに投げかけられて、一瞬だけ何をどうしたらいいか分からなくなった。
「あはは……。大丈夫、見てないよ」
「そこまで配慮の欠けた人間でないことは、俺が一番よく知っているつもりだ」
 言いながら歩み寄った微かな笑みが、身体の前に回っていた報告書を優しくさらう。
 気づいた時には身体の横から手を伸ばされ、机上の研究資料も彼の手に収まった。
 過ぎた瞬間掠めた香りは、いつもの香水のものよりも太陽と大地の匂いを感じさせた。たったそれだけのことではあるが、常に礼節を忘れない彼にとってはまともに休息も取れない現状を窺わせるものである。
「城まで来させてしまってすまないな。本来ならこちらから出向くべきなのだが、何かと人手不足で、城下を離れる暇も無い」
 資料を捲ろうとした指先がふと動きを止めて先程自分がしたように文面をなぞり、見上げる自分の指が痺れる感覚を覚える。
「相変わらずいい字だ。俺のものとは比べ物にならん」
 文字も一応は絵ということか。勝手に納得するように彼の人の口端が上がる。
 息を吐くように紡がれる声は、どう聴こうともくっきりと、溜め込んだ疲労を滲ませて。
「―――疲れてるね」
「ん?」
「隈、できてるよ」
 微笑みながら手を伸ばし、瞳にかかる金色の髪を指先でそっとよける。自然に隠された微かな黒を露わにして、互いに細めた眼が合わさった。
「酷い顔、してる」
「……そこまで酷いか」
「注意して見なきゃ、たぶん分かんないけど」
「自分の疲労の程度くらいは、解っているつもりだったんだが」
 どうやら本気で解っていなかったらしい彼は、遅い自覚に漸く疲労の色を瞳に色濃く宿した。
「倒れちゃ元の子も無いよ?」
「そうだな。後で少し、息を抜かせて貰うことにしよう」
「後で?」
「ああ。とんぼ返りで悪いが、これからもう少し用がある。それが一段落したら、な」
「そっか。早く帰ってくるんだよ」
 笑いながら額に触れていた手をさらに上へ伸ばすと、理解したようにまばたいて頭が少し下がる。一つ天辺を撫でて、その後再び身長差が元に戻る。



「さっき、言ってたけどさ。そっちのだっていい字じゃん。相変わらず癖はあるけど」
 言った後、視線の先で一つ瞬いた瞳は僅かばかり驚いているようにも見えて、不思議に思い首を傾げる。
「どうかした?」
「いや―――大したことじゃない」
 呟きながら、瞳が一旦伏せられる。
「よく、俺の字だと分かったと思ってな」
「?」
「サインも何もしていない」
 見せられたそれに、確かに彼の物と明確に記すようなものは無い。
「分かるよ、そのくらい」
 それでも至極当たり前に告げた声色に、笑みを浮かべつつ同様に首を傾げられる。
 秘密、と目を合わせて口にして、一つやんわりと笑って見せた。





水茎に愛を、貴方に微笑みを
そしてまた一つ、知らない貴方を知る。




人は、恋をしてはじめてすべての子供らしさから脱皮する。―――スタンダール『恋愛論』より。
私自身柄でもないですが、これは彼女にぴったりの言葉だと思います。

前回の「真昼の沈黙」と同様にエンディング後日談。
「水茎(みずくき、水茎の跡とも言う)」=筆跡です。これでもまだ自覚はないと言い切ってみせる。 両者ともに自覚はなくても雰囲気だけ醸し出して、兵士達の間で噂になってるといいさ。…というより「兵士」であってるんだろうか。流石に「衛士」とかではないだろうけど。
[ 10.01.08 ]


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