「去年、ジンさんが言ってたけど」
 言いつつ後ろから首にしがみ付かれ、立つこともできず身動きが取れなくなる。
「いちいち引っ付くなっての」
「へへ」笑いが聴こえるも重さは離れない。
 あの七日間が過ぎて一年程度が経っているが、成長するどころか前より増してじゃれ付いてくるようになった。いつも思っていることだがまるで子供のようだと心中で息を漏らす。あまりに頻繁な為に今では引き剥がすことも面倒になってしまっている。
「ジンさんは、おじさんになったカイドーなんだって」
 ほんの些細な告げ口の内容に、呆れの息を短く吐く。
「……よく言うぜ。自分の方がやんちゃやってたくせによ」
「そうなの?」
「少なくとも、お前が想像できねぇくらいにはな」
 純粋に受け止めてどうにか思い浮かべようとする、その精神には先程とは違った意味でほとほと呆れが零れる。見たことも感じたことも無いものを想像できる筈も無い。案の定思った通りの結果に至ったようで、青の頭が視線の端で小刻みに揺れている。右肩が重い。ついにはくすくすと笑い声まで聴こえて本格的に眉を顰めた。
「カイドー以上、っていうのがあんまり思いつかない」
「どういう意味だ」場合によっては殴るかもしれない、と比較的のんきに思う。しかし返ってきた言葉は想定をはるかに超越していた。
「だって、カイドーがやってた事って、人助けぐらいしか覚えがないから」
「……は?」
 意味が解らなかった。少なくとも、人助けになるようなことをした覚えはない。むしろ周りから白い目を向けられることの方が多かったように思える。
 顔の横で未だか細く笑う鴻也へ、疑問より先に怒りがほんの少しだけ湧き上がる。そして同様に、片隅でささやかな平穏に目を細める心が不思議でならなかった。
 いい加減にしろ、と言えたならよかったのだろう。けれどその言葉はもうすぐ使えなくなると、そんな必要の無い自信があった。夏はもうとっくに自分達の横を通り過ぎて、次の季節へと続く境界線上を彷徨っている。
 少しずつ、しかし確実に、兄貴が死んだ【時】に近付く。成人の線引きから、さらに一歩前へ。
「初めて会った時、直哉を探してくれた」
「……あれが人助けに入るかよ。結局てめぇで見つけたンじゃねぇか」
「それでも、チームのみんなと一緒に、探してくれたんでしょ?」
 いつまでも子供のような眼差しを向けるこいつも、もうすぐ一年前の俺と同じ場所に立つ。
 時間は止まらない。
 こうして立ち止まっている間にも後ろから絶対的な「死」は歩み寄る。
 もしかすれば「それ」は既に足元まで忍び寄っているかもしれないと、どんな時でもそう感じていた。そう思わなければならないと、信じた。






    殺したのは俺だった。






「ひょっとすりゃ、嘘だったかもしれねぇぜ」
 一陣の風が吹いて、不意に目を閉じる。
「お前が俺の携帯に、お前の兄貴の画像を送って行っちまった後、俺はすぐにそれを消しちまってたかもしれねぇ。頼まれたことなンざなかったことにしてたかもしれねぇ。探すなンざ、はなから嘘っぱちだったかもしれねぇ」
 並べ立てる言葉は、今となっては虚言に過ぎない。そして俺は、あの時のことを思い出さない。
「他人なンざ信じねぇ。最後には、裏切られるだけだ」






 兄貴が死んだあの時、形の無いものは信じないと誓った。
 確証の与えられないもの。「時」 に薄れ忘れゆく可能性のあるもの。
 その全てを信じないと、心に誓ったあの日。
 今まで生きた「時間」から切り離され、独り、光の見えない道をひたすらに歩いた。
 その結果として、必要なのは「力」なのだと「信じた」。
 結局は、それも、間違いでしかなかったのだ。

 何故なら、結局自分は、何も守れなかったから。






「……兄貴は、俺が殺したンだ」
 重い瞼を持ち上げた、愚者の懺悔。或いは独白。鴻也は口を閉じ、じっと耳を澄ましている。
 長く抱えた心の澱を吐露しようとしている自分が情けなく、そして悔しく思えてならなかった。それ以上に自分のものではないあたたかさに、場違いな安らぎと、安堵への困惑を覚えた。
「俺が、殺したンだ」
 虚ろに繰り返したそれが事実でないことに、俺も鴻也も気づいている。
 だが真実は既に過ぎ去り、それを知る者は数少ない。知ることの無い事実は時の流れに流されて、過ぎ去った時間は二度と戻らない。確証無き泥で塗り固められた「嘘」を、人は時に「真実」と呼ぶ。
 だから形の無い、時間に薄れ忘れゆく可能性のある「それ」を、俺は「現実」と呼んだ。
「俺は目に見えるものしか信じない」目に見えないものは信じない。
「兄貴は、俺に頭を継がせるようなことはしないと言った」
 形の無かった「約束」は「死」に覆い隠され、俺は望まなかった筈の場所に立っている。
「一人の方が、好きだった?」
「………。だからかもな。悪魔の力を、手に入れようとしたのは」






 誰に借りる必要も無いくらい、強い力が欲しかった。
 目に見えないものを求めてまで、課した誓いを破ってまで、約束を、果たそうとした。
 たとえ違う形でも。裏切らせるのは、嫌だった。

 けれどその想いさえも、ほんの少しの差違だったことを、知る。






「大切だったんだね」
 うっすら笑みを浮かべ、鴻也が囁く。
「お兄さんのこと」
「……ンなわけねぇよ」
 どこまで行っても、行きつく先は自分のエゴでしかなかった。
「それでも、きっと、大切だった」
 こいつが言うことは、確証が無くとも無条件に信じられる。
 天を仰いだあの日の誓いは、今ではもうほとんど意味をなさなくなっていた。
「傲慢にも、程度ってもンがあるよな」
 見上げる空は、今はもう横の青よりも淡く柔らかな蒼で澄み渡っている。
「すごく悲しくて、辛くて、悔しくて、…………あったかかったんだね」
 単純で拙い言葉を、これほど鮮やかに意味で満たせるのは、こいつくらいだろう。
「……そうだな」
 だからこそ、たった一つの言葉で、応えることができる。






 時の流れには、過去、現在、未来、三種類しかない。
 現在は矢のように過ぎ去り、過去は永久にそこに立ち続けている。
 過去に生き、そして「死んだ」人間が居た。その事実は変わらず俺の中にある。忘れてはいけない、忘れてはならない暗色の記憶。色褪せていくだけの記憶でも、確かに兄貴は「其処」にいた。確かに俺の、前に、居た。
 ただそれだけでいいのだと。そこに居た「事実」を忘れなければいいのだと諭す、音無き声。

    未来は人を照らすためにあるのだという。
 癒しを、希望を、   光を。
 忘れなければ、いつか必ず、照らされる時が来る。
 暗色の記憶。悲劇の光景。長い永い、夜。
 照らされる、時が。






「鴻也」
 何気なしに名前を呼べば、いつもの調子で応えが返る。
 独りではない。かつての自分も、独りであることを望んだわけではなかったことを知った。
「すげぇな、お前」
 冗談も飾りも無く、ただただ純粋な言葉を向ければ、純粋に笑う声が耳に入る。
 穏やかで、静かで、それでいて零れんばかりの輝きとぬくもりに満ちた、あたたかな。






 形の無いものは信じないと決めた。
 けれど、形が無くとも信じられるものがそこに「居た」。
 今は、きっと、それだけでいい。
 せめて、暗く塗りつぶされた【時】が、あたたかな光で照らされるように。
 今はまだ遠くとも、いつか、きっと。






自分が考えるカイドーのお兄さん像は、とても優しい人。グループのリーダーだなんて傍目には分からないような。ジンさんとカイドーを足して二で割って、そこからカイドーに少し傾いたくらいの人。マリさんが好きだった人で、カイドーから慕われて、憎まれて? 減らず口を叩かれながら、それでも笑っていたような人。
マリさんが苦しくて立ち止まってしまったのと同じように、カイドーも同じように今までの「時間」からはぐれてしまったのだと思います。自分が考えるカイドーは自己嫌悪と埋められない空虚が心中で絶えず拮抗している人で、七日間の昼と夜を超えて、それでもまだ出口を見出すことができないような深い闇を彷徨っている。
……よくよく考えてみれば、コウ(主人公)も一応「弟」なんですよね。状況は違えどどちらも「兄」を失ってしまっているので、互いの想いは手に取るくらいわかるんじゃないかな。

何時か照らされるその【時】が、どうかぬくもりで溢れているようにと、願うばかりです。
[ 09.10.23 ]


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