まだ九九も空で言えないほど幼い頃から、歌だけはよく褒められた。
 自分はほんの少し違うんだとそっと理解しかけていたときでも、それが自分と誰かを見えない糸で繋いでくれていた。
 代わりに手を、伸ばしてくれていた。




 東京の、山手線の内側。ファーストフード店の窓際の席で、ハルと向かい合って座っている。
 これからジンさんにも会うことになっているので、昼食は必要ないだろうと勝手に判断して頼んだのは100%オレンジジュース一つ。ハルも同様に判断したのか、アイスティーだけを注文していた。
 透明なガラスの向こうではあれだけの危機が嘘のように、適度な午前の空気の中を人々が思い思いの表情で過ぎていく。
 平穏を取り戻したことへ安堵さえ覚えれば、反面いつまたあの「地獄」の再来が訪れるかもしれないという仄暗い不安を抱く時さえある。ごくたまに、だけれど。
「一度でいいからさ、もう一度聴かせておくれよ」
 ストローに口をつけながらぼんやりと外の雑踏を眺めやっていれば、ハルから声がかかる。
「ハルも結構しつこいんだね」
「アンタが気まぐれに強情なだけだよ」
「心外だなー」
 思ってもいないことを抑揚薄く呟いて、どうにも喋りにくいと思ったら、ストローを加えたままだった。
 オレンジジュースの甘さと冷たさは未だ名残惜しかったが、口を離して容器を置く。
「一回でいいからさ。ね、頼むよ」
「何かを頼む時には時と場所と状況と相手の態度を見てから口に出せ、って誰かに教わった?」
「そういうアンタはどうなのさ」
 質問に質問で返すのはよくないよ、と口には出さない。
「教わってたらきっと、ジュースだけ頼んだりしなかったと思う」
 少なくともジンさんへの配慮ぐらいはした筈だ、と他人事のように考える。
 いや、仮定の自分の心境を考える時点で、その思考はもはや他人事だ。あれを何していたらこうなっていただろう、なんてことは考えたくもない。現在のことを考えるだけで精一杯だ。
 例えば。
「―――――、とかさ」
 頭の中で想像は容易に具現化できたはずなのに、言葉はやけに小さくて、自分でも聞き取れないくらいにか細かった。
 それでもハルの耳は地獄耳だったらしい。
「なんだいそれ。……かたっ苦しい哲学はいいからさ。歌っとくれよ。ほら、ここはアタシ持ちにしとくからさ。ね?」
「そういうつもりじゃないんだけれど」
「細かいことは気にしなくていいよ」
 此処までしつこい、もとい物事に執着するハルも、珍しいと言えば珍しい。
 これではジンさんのお店の道中も同じ会話が続きそうだと、目を閉じて想像し一つ細い息を吐く。それは了承と同じ意味だった。
 ハルも理解できるようになってきたのか、何処となくはしゃいだ様子で座ったまま身を乗り出してくる。片目で見てまたひとつ聞こえない程度に息を吐き、肺へ息を吹き込む。
 そのまままた眼を閉じて、ハルの辺りまでしか聞こえないであろう小さな声で、歌い出す。
 目を閉じた暗闇の中で、太陽には見えない何かがきらりと光って、消えた。
 それが何なのか、自分では、考えようとしない。




「アンタさ、なりたいもんがなかったら、歌手になればいいよ。なんならD-VAに入ってもいい。そん時はアタシがメンバーに話つけてあげるからさ」
 些細な歌を歌い終わって、ハルはひどく喜ばしいといった様子で笑った。
「向いてないよ。断言できる。ハルみたいな説得力も、アヤさんみたいな包容力も無いし」
 ストローから口を遠ざけて否定すれば、一息置いて呆れたような声が降ってきた。
「そんなもんの為に、あたしやアヤさんが歌ってたと思ってるのかい」
 返ってきた言葉が意外にも反論だったので、疑問符を浮かべながら一つ頷く。
 見ればハルは倦怠感にも似た感情を如実に滲ませている。


「こんなこと言うのは、気が引けるんだけどさ。ハルになら、話してもいいかな」
 歌手だし、と誤解のないよう前置きする。唐突すぎる緩やかな決意は、ハルもすでに慣れてくれたらしい。それがどうにも心地いい。
「何だい改まって。アンタらしくもない」
 ほんの少しの脱線を指摘され、ほんの少し笑って見せて一度ストローを口に含む。つうと吸えばひんやりと適度に冷えた液体が口の中を巡り巡って、喉の奥へと潜っていった。
 正直言って、誰かに話したがるような事柄ではなかったこともあった。歌を歌い続ける彼女になら、共感とはいかなくとも理解はしてくれるような気がしたのだ。
 もちろんそれは、希望でしかない。
 希望を裏切って裏切られて、絶望を実感したためしもなかったことだって確かだった。

「歌を歌った時は、繋がれるんだ。違う誰かと」

「そんなこと、昔から知ってる」
 自慢するようにこちらが期待した言葉を紡いで口端を上げたハルは、封鎖の中で自らを絶つことを考えたハルには到底見えなかった。
 機械仕掛けの予言で導き出された、人の手で変えることのできた未来、その中にハルが居た。だからこそハルは今ここで、笑っている。
 命を失わなかったことだって確かだ。けれどハルは、その先を明日を生きる理由も見つけられた。
 地上の、ある意味では地獄。打ち捨てられ崩壊する理性の渦中で、それでも希望を捨てなかったから、今の自分達が此処に居て。笑うことができて。
 日常を取り戻すことも、新しい生き方を見つけることだってできた。
 そう考えたら、あの時覚えた恐怖と悲しみも頭の中で静かに消えていくのではないかと、思うけれど。
 地上の光が消えて、夜空の光だけが優しく降るあの空を、まだ憶えていられている。
 だからこそ、あのたくさんの絶望と、小さく芽吹いた希望の灯を、忘れていない。




 過去を嘆かない、手放さない。そして未来を怖れない。
 失ったものを悲しまないこと。昏い未来に心を見捨てないこと。冷たい闇に投げ出されて放り出されても、希望だけは見失わずに歩いていくこと。
 たった一つだってそれらのことができたから、自分達が今此処にいる。

 だから、たった一人。




「もうそんなに歌わなくなったから、褒められたのは久しぶりだったんだ」
 だから、嬉しかった。ジュースのプラスチックコップを片手に街路樹の下を並んで歩きながらそう口にする。
 するとハルはほんの少し哀しそうに笑う。ほんの一欠片程度だったから、ぼんやりしていたらきっと気づかなかった。
 もしかしたら、気づかない方がよかったのかもしれないけれど。
 ハルにとってではなく、自分にとって。
「だから、思い出せた」
 ありがとうと、その一言だけは、今はまだ言えなかった。
「"歌こそは、境界の無い言葉"。アヤさんはいつもこう言ってた。あたしはその意味がようやく分かったばっかりだけれど、アンタは昔からずっと、知ってたんだね。……うらやましいよ」
「ジンさんもそれ、よく言ってるよね。すごくいい言葉だと思う。でもこっちはきっと、もっとうらやましいと思ってる」
 意味が分からないといった風に、ハルが首を傾げる。仕草がやけにハルには似合わなくて、悟られないように笑みを滲ませる。風上から降る木陰の緑が、季節に色褪せて風に揺れる。
「だってハルは、分からなくてもそれをずっとやってた。ハル自身が伝えたいことを、みんなにいつも伝えて、励まして、笑顔にさせてた。……思い出してなかったから、一番伝えたいことがあるときに、できなかったから。だから、伝えられたハルがうらやましい」
 見上げればすぐそこで、鮮やかなほどの緑が茶色い枝先から楽しげに顔を出す。歩道に植えられる木が広葉樹なのは、夏には葉を茂らせ太陽からの恵みを和らげ、冬には葉を落とし大地へ光を十分に届けるためなのだとか。
 当り前のように、いつの間にかそこに在ったものにも、必ず理由はある。
 なら今此処に居ない存在にも、ここに在るべきではない理由があるのだろうか。時折そんなことを、思う。

 本当に伝えたいことは、どんなに間を遮るものがあっても、どんなに耳を塞いでも届くものなんだとハルが教えてくれた。
 だから叶うまで歌い続けていられるように、風に掻き消されてしまうくらいに小さな声でも、歌っている。緩やかな風が遥か遠い地へ一粒の砂を運ぶのと同じように。
 この歌が届けばいい。どんなに遠く離れていても。




 過去を嘆かない、手放さない。そして未来を怖れない。
 失ったものを悲しまないこと。昏い未来に心を見捨てないこと。冷たい闇に投げ出されて放り出されても、希望だけは見失わずに歩いていくこと。
 たった一つだってそれらのことができたから、自分達が今此処にいる。

 だから、たった一人。
 世界に溶けて消えてしまったたった一人を、今でもまだ待ち続けている。


 離れてしまったものを乞わない。失ったものを悲しまない。
 ずっとそうして歩いてきたから、今更振り返ることなんてできなかった。
 それらの「悲劇」を言い訳に、立ち止まることすら許されなかった。
 唐突な過去との再会には歓喜を憶えたけれど、声が届かないくらいに遠く離れてしまった心には嘆くように泣き叫んだ。
 あまりにも酷な「喜劇」に笑いさえ込み上げて、そんな自分を恐ろしく思った。
 それでも投げ出すことを選ばなかったのは、決して一人ではなかったからだ。
 どんな時でも、一緒に同じ苦しみを乗り越えて行ける仲間が、そこにいたからだ。
 でも、彼にはもう、誰もいない。


 復讐する道具にだけはなりたくなかった。
 それは、それだけは自分の為じゃなく、たった一人の「誰か」の為に。
 哀しみの刃で絶望を殺しても、そこからまた刃は生えて、いつか自らを刺し殺す。
 命が廻っていたのと同じように、昏い願いだってまた同じように繰り返すのだ。
 その未来は、想像するには容易く、目撃するには余りにも、残酷で。
 たった一人で終わりを迎えるそれは、きっと「悲劇」以外の何物でもない。


 奇跡なんて無いと分かっていても、希望だけは手放さなかった。
 けれどもっと声を張り上げて、いっそ喉が枯れて潰れてしまうくらいに強く歌うことができたなら。
 仮定の未来を、そう今でも思うのは。

 きっとまだ、信じているからだ。






「いつの間にか、泣けなくなってたから。きっと昔に、たくさん泣いたからだね」
 目に見える証拠がそこに無くても、きっと自分は泣いていたのだろう。自分のことでも想像するのは簡単だった。
「昔、って。あたしより年下だろ? アンタ。まるで自分が世界で一番最初に生まれました、みたいな言い方だね」
 知ってか知らずか、ハルの言葉はよく真意をつく。きっと、未来を見ることを「大人」になってようやく憶えたからだ。
「大人になるって、複雑だね」
「アンタだっていつかはそうなるよ」
「ジンさんとお酒、飲めるようになるのかな」
「ハタチ過ぎりゃあね」
「カイドー……の、グループ。入れるのかな」
「それはー……アンタとカイドー次第だろうね」
 後者は、自分でもたぶん無理だと思う。それに同じ目線じゃなくて、違う場所からあの生き様を見ていたいと思うから。


 落日の色から最も遠い色。夏の終わりの新緑が、僕の頬のすぐ横を通り過ぎていく。
 冷たさを含んだ優しい風が前髪を人掬いして、空の彼方へ消えていくのを見届ける。
 ―――絶望の終わりから、ほんの少しの欠落から、もうすぐ3か月が、過ぎようとしていた。






 奇跡なんて無いと分かっていても、希望だけは手放さなかった。
 けれどもっと声を張り上げて、いっそ喉が枯れて潰れてしまうくらいに強く歌うことができたなら。
 仮定の未来を、そう今でも思うのは。

 きっとまだ、信じているからだ。
 歌も、記憶も、世界も、――過去も。
 記憶だってほとんどない、それでも優しかっただろう遥か遠い過去の声でも。
 笑みの温かさが、欠片でもこの胸に残っているから。




 まだ九九も空で言えないほど幼い頃から、歌だけはよく褒められた。
 自分はほんの少し違うんだとそっと理解しかけていたときでも、それが自分と誰かを見えない糸で繋いでくれていた。
 代わりに手を、伸ばしてくれていた。


 だからこそ、今でも歌い続けている。
 自分の為に。そして誰かの為に。
 小さな声だけど、この歌が届くように。
 遠く離れてしまった「兄弟」を、もう一度繋いでくれるように。




「届くといいね。アンタの「歌」が」
「うん」
 他愛ない話を続けていたのに、ほんの少しだけ哀愁が混じってしまった声に自分で気づいて。
 そして、また音も無く歌い出す。
 遠く離れてしまった誰かの為に、小さな声で、叫び続ける。






ちょっとしたED後、ねつ造? まだどれもクリアしてないのに。
ジンルート「希望の唄」だけど「兄弟」の真実を知っている主人公。やけに思考が子供っぽい、のだけれど。
そう見えないのは拙い文章力のたまものです。
それでも手が届くほど近くにいるとは、どうしても思えなかったから。

どうしてか、コウとナオヤの歌なんじゃないかと思った。
兄弟愛でね。

song : 誰カノタメニ / 城南海
[ 09.07.23 ]


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