その手を握ってやれなかったことが、何よりの後悔だった。ような気がした。



 そこでは、何にも手は届かなかった。自分以外の存在には。
 すべてから切り離された場所だった。空白よりもなお白い色が粒子のように広がり、何一つ微動だにしない。
 何にも手は届かなかった。すぐそこに居た筈の道行きの連れにも。血生臭いコンクリートの上を共に駆けた悪魔たちにも。
 すぐ目の前に傷一つ忘れて無表情に立ち尽くす小僧にさえ。

「オマエ、今、なんつった」
 絞り出した声はやはり掠れていて。
「やめようって、言った」
 宣告した声には想像に違わず何の色も映さなかった。
 その代わり、いつも以上に響いて聞こえた。
「カイドーが望んでることは、できない」
「魔王になって、怖気づいたってかヨ……。今更戻れりゃしねぇンだ」
 だから早く、戻ってこいと。
 意味の無い言葉は並べず、手の平を伸ばす。その上にはすぐに意味が乗る筈だった。
 確信があったからこそ、呆然と立ち尽くした。

 今まで疑うことすらせずに信じるばかりだったその手が、静かに後方へ退いたことに。

「ねぇ、カイドー。カイドーはまだ、帰れるよ。……もう戻れないから」
 このまま見捨てて。見限って。
 声にならない声が耳の奥で聴こえる。耳を塞ぎたくなったが叶わなかったし無理やりこじ開けるつもりだった。
「魔王になれば、どうにかなると思った。今もまだ、信じてる」
 その手がやけに小さかったことに、今更気づいた自分は愚者だろうか。
 いや、愚者であることは初めから知っていたけれど。
「でもね、昨日の夜、みんなの言葉を見た」
 そこから今この時間に繋がる手を取った。それでも新たな魔王は、まだこの先に道があると言う。
 そこに行けるのは自分一人で、俺も、他の誰も悪魔達でさえ、連れてはいけないのだと。
「言った筈だぜ。俺の命はオマエので、オマエの命は俺のものだ」
 人生でたった一つ告げた誓いは忘れない。忘れることなどあり得ない。
「本当に、嬉しかった。一緒に居てもいいんだって、思えた」
 こいつはいつだって大事な一言を胸の奥に閉じ込める。言葉の何かを怖れるように。
 そして泣きそうな顔で笑っていることに気づく。眉を、顰めた。
「やっぱガキじゃねぇか、オマエ」
「だって、捨てたくないから。人の心も、悪魔達の心も」
 魔王となった今、こいつの一等深いところには全ての悪魔の一等深いところにあるものが絶えることなく隙間なく流れ込んでいるのだという。
 聞いたときそれはどんな感覚なのかと柄にもなく想像しようとしてみたものだが、頭の中に納まりきらずに諦めて投げ出した。
 他の誰にも収めきれないほど膨大な【心】をこの細い小さい手が握り締めているのかと考えれば、指先が何故かピクリと震えた。相変わらず、柄にもなかった。
「きっと、こうするしか、ないから」
 目の前の【新たな魔王】は、未だに泣きそうな顔で笑っている。もはや無表情にはほど遠い。
「……何がしてぇンだ。言ってみろよ」
 捨てるなど考えていなかったのだ。手のひらから零れそうなほど、溢れんばかりのものでも。


「笑ってて、欲しいんだ。人間も悪魔も天使も関係なく」
 それは明らかに、抽象的な【夢】だった。


「わかるんだ。……わかるんだよ。星が、消えていくのが」
 今は遠い空は赤く染まり、濁った雲で覆い隠されている。
「誰の言葉を選んでも……星が消えるのが分かった。誰かがまた笑えなくなる。……綺麗事だって解ってるよ。それでもみんな笑っていられる道があるから、いきたい」
 その一言が意味するものはどちらか、考える気にはなれなかった。
「ねぇ、カイドー。もしも自分と、自分より大切なものを秤にかけなくちゃいけなくなったら、カイドーはどうする?」
 咄嗟に答えは出なかった。即座に口にしてしまえばその途端目の前がすべて白に覆われてこの声も二度と聞こえなくなるのではないかと一瞬思いもした。
「決まってンだろ。命なんざ惜しくねぇ」
 求められた答えが、届いたようだった。笑みが深まる。
「同じだ。……笑っててほしいんだ。ユズにもアツロウにもナオヤにも、ケイスケにもミドリちゃんにも、ハルにもジンさんにもマリさんにもアマネにも、ホンダさんにも、ショウジさんにも、イヅナさんにも、悪魔のみんなにも、……カイドーにも」
 雫が零れて、何にも届かず白に果てた。
「優しくなんてない。愚かなんだ。それでも――」
 約束は、誓いは、違えられることはないだろう。そんな予感がした。予感と言うよりは、確信。
「泣いてほしくないから。いつか、かえってくるよ。絶対に。……その時は、カイドーの名前も、呼んでいい?」
「当たりめぇだろ。俺の命はオマエのもので、オマエの命も俺のものだ」
 返した言葉が執着の鎖を解き放ったことに、口端を上げてからようやく気づいて、わらった。きっと長い逢魔が時は瞬きの合間に過ぎ去って、そこにこいつはいないだろう。
 辿り着く先も始めから決まっていたのだと、いらつきもしたがそれ以上に未来を垣間見た自分が不思議に思えてならなかった。
 魔王が――いや違う。鴻也が、それを願うなら。それは必ず現実になる。そして、世界は。
「忘れンなヨ。俺とオマエの命は、この世で一等高ぇ所にあンだからな」
「うん。――だから、絶対かえってくる。みんなが待ってる、この世界に」


 もう一つ約束だね、と笑う世界で唯一で無二だった存在が、世界に溶けて跡形も無く消えた。










 そんな、夢を視た。










 昔からやけに眠りは深いと自覚していたものだったが、まさかすぐ横の気配に気づかないほど熟睡する能天気野郎だとは思いもしなかった。
 後ろには廃棄されながら役目を全うするように立ち続けるぼろい金網、前では少し離れた場所でダイモンズの幹部連中が話し込んでいる。
 そして何故か左肩の上には、気持ち良さそうな寝息を立てて眠る青い頭。
 珍しく奇妙なヘッドフォンは外されてその手に握られている。


 ――……あ、カイドーさん。目ぇ覚めました?
 ……覚めたは覚めたけどヨ、
 ああ、そこのボウズですか? 寝てるっつっても、それでも会うって聞かなかったもんで……。
 ンで入れたら、こうなったってか。
 ええ、……やっぱまずかったっスかね? 叩き起こします?
 いや、いい。続けてろ。


 話しかけてきた部下を会合へ戻らせ、目を擦りつつ再び金網へ寄りかかる。
 相手は声がやけに響く奴だったのだが、よく寝ている。ピクリとも起きる気配がない。
 何故ここに居るのかと、考えそうになったが止めておく。こいつの行動はいつだって気まぐれだった。敵も味方も、人間も天使も悪魔も神でさえ関係なく。
 常に、風のように飄々としていて。それでいてどこか、孤独で。

 初めてこいつの目を見たとき、眼差しの奥に俺と似通ったものを感じていた。
 どうしようもない、わけの解らない得体のしれないやるせなさ。固執しようとしながらすることができない、手放してまた探すだけの頼りない生き様。一欠片の楽観。それらが混ぜこぜになって、それでも漸くといった様子で常の姿を保っていられている。
 水彩絵の具を筆で取り色を塗り、その残滓を水に溶かすことを続けてどろどろになったような色。薄汚いくせに完全に穢れてはいない、もはや何にもなれない色。心の底から「面白い」と思えるものを見つけたくて、それでもどこか絶望にも似た失望を抱いている瞳。
 違っていたのは、こいつの目はさらに物事の本質が見ることができていたこと。だからこそ、信じようと思えたのかもしれない。
 今なら薄ら笑えるそんな希望はあっけなくすり抜けられたけれど、失望と言うよりは高揚感にも似たものを感じた自分がそこに居た。こいつが連れてくる未来はひどく退屈なものではないだろうと、何の確証もなくそう信じた。


 辺りはもう夕暮れをだいぶ過ぎていて、再び瞼を下ろす気にもなれず、やいやいと騒ぐ部下達を両足を投げ出したままぼんやり眺めていれば、肩の青い荷がピクリと動く。
 そろそろ起きるかと黙って見ているも、些細な痙攣はすぐに止みまた心地いい寝息が戻ってくる。

 いったいいつになりゃ起きンだヨこいつは。

 先程耳にしたように叩き起こすのが一等手っ取り早い策だと知っていたにもかかわらず、随分と怠けている自分がいることに気づいている。
 それでも何故か。同じように投げ出した両腕を拳で上げる気にはならなかった。
 その内熟睡の中で見ていた夢を思い返すために、脳味噌はゆるゆると動き始めていた。




 もしもこいつが。あの喧噪のなかで、そんな決意をしていたなら。
 他の誰を選んでいても自分を選んでいたとしても、誰に話はしないだろうし、言って誰に止められたとしても曲げないのだろう。
 こいつがそう決めたのなら、それはきっといつもの気まぐれではなく、本当の決断なのだ。
 誰よりもこの世界に絶望し、その上誰以上に全てに笑っていてほしいと臆面も無く言い切れるこいつなのだから。
 たとえば自分の手を取ったとして、その手を離すまいと白くなるほど握り締めても。
 風はとらわれない。その隙間からするりと抜けだし、何にも手の届かない場所へ。
 考えただけだというのにその想像は浮かべるにはたやす過ぎて、やけに背筋を冷たくさせた。金網が夜風に冷え切っていたのかもしれない。
 少なくとも今のあいつは、あんな苛立たしい顔では笑わない。それだけが何よりの救いなのだろうかと、そんなことを考えた自分に素直に顔を顰めた。




 柄でもなかったが――何かに呼ばれたような気がして見上げれば、曇天の限りだった空は漲るほどに晴れ、正常な騒がしさの中で復旧した機械の灯に負けじと数個、頼りない光がこちらを見下ろしている。
 昔から遥か頭上で貶されているような気がして、苦手だったことを今更思い返して息を吐いた。
 思い出してしまったのはやけに「あれ」を気に入っているこいつのせいだろうが、責任の転嫁は自分と自分に関わるものを貶す連中以上に嫌悪しているものだ。
 だから一つ溜息を吐いて、肩の「荷物」の上に手を乗せるだけで勘弁しておく。


 静かに、都市の喧騒は続く。そしてこれからも、絶えることはないのだろう。
 退屈過ぎて欠伸が出るほどだったこの世界が、今では何故か心のやけに深いところに滲(し)みついて引き剥がせなくなっている。
 その意味は分からない。解りたいとも思わない。おそらく知る必要などないのだろう。今の自分も、先の自分も。
 そんな怠惰の中でも、こいつにはきっとその意味が見えている。見えたとしても、決して口にはしない。そういう奴だからこそ、やけに存在が懐かしく思える。昔から、それこそこいつがガキの頃から、こうして共に居たような。考えただけで何かがやけにむず痒くなったけれど。
 信じられるものだけを信じて、見えないものを信じて。空を見上げて星を探す。こいつはいつだってこいつなのだから、そんな風に生きていく筈だ。予感は確実に外れない。裏切らないと、誓った。


 ……もしかすりゃ、単に信じてみたかっただけかもしれねぇな。


 少し前の自分なら言葉にすることもなく忌わしく思い消していただろうその心は、無意識に下唇を軽く噛ませた。不思議と、鬱陶しくはなかった。
 左手の下の青がもぞもぞと動き出す。自分の事は棚に上げ、少々難有りな目覚めの時間と言えた。
 その内指先が持ち上がりこちらの手に触れて、震えた瞼が不器用に開く。


 見えた瞳は、見上げた空と同じ色と光を宿していた。






ジンルートその後。淀んだ絶望はいなくなって、夜空の希望が落ちてきた。
星は「道標」であり「希望」。
そしてコウは、自分を呼びません。自分で自分の存在を確かめることが、そんなに怖いのか、どうか。

始まりの夢は、もしかしたらあったのかもしれない未来の夢の一つ。白い夢。
ある意味一番優しくて、愚かで自分勝手で、誰もが笑っていられる世界への。
魔王ルートの主人公に、一欠片でも「支配」ではなく「希望」があったなら、こうなっていたかもしれない。
あのまま鴻也は世界の一等深いところに溶けて、世界になって、そして何時かひょっこり皆の前へ戻ってきます。
[ 09.07.27 ]


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